日本全国スタンプラリー

読み込み中...

文京区の他のスポット

この市区町村をすべて見る

文京区立元町公園

東京都文京区地下鉄三田線「水道橋」徒歩5分のところにある公園です。 水道橋駅からお茶の水坂の中間くらいのところに有り外堀を下に見る斜面を生かした公園です。 大正12年に起きた関東大震災のあと、災害復興公園として設置が計画されました。 元町公園は52作られた小公園の一つで元町小学校に隣接した敷地に作られました。 小公園は校庭の延長になり運動補助場や地域の避難所の役割を果たしていました。 ケヤキやイチョウ・アオギリなど大きな木が公園を囲み防火樹林として植栽されています。 太平洋戦争中、金属の供出により、公園の門扉や外柵などを失いましたが昭和50年公園の改修時、当時の図面を参考にできる限り再現されました。

小石川後楽園

1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっており、岡山市にある後楽園と全く同じである。 7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。 また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れている。光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。 1869年(明治2年)の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。(この名残で現在でも砲兵工廠の遺構のいくつかを園内で見ることができる)1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになった。 1923年(大正12年)3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山市の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されている(有料)。 なお、1937年に隣接する旧東京砲兵工廠跡地にプロ野球興行を主たる目的として造られた野球場は小石川後楽園にちなんで「後楽園球場」と名付けられ、さらに同じ敷地内にできた遊園地や多目的ホールなどにも同じように「後楽園」の名が冠されている。

六義園

。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。 「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する[1]。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。 明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。

聖橋

関東大震災の復興橋梁として昭和2年(1927)9月8日に完 成。御茶ノ水駅の東端、東京都千代田区駿河台と文京区湯 島を結ぶ、神田川にまたがる《長さ92.0m、幅22.0m》のコ ンクリ-ト橋『聖橋』。★設計・デザインは《山田守、成 瀬勝武》。 橋の名称は、東京府東京市(現:東京都)が公募し、北側 にある江戸幕府の官学所となっていた国指定の史跡「湯島 聖堂」と,南側にある国指定の重要文化財「日本ハリスト ス正教会復活大聖堂(ニコライ堂)」の2つの日本文化と 西洋文化の両極を結ぶ橋の意味を込めた『聖橋』が選定さ れたそうです。 聖堂を結ぶことから放物線を描くアーチ橋の立体的な橋脚 美は、船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザイ ンされており、神田川の景観に美しく溶け込んでいる橋と して今も評価が高く東京の新名所となっています。

傳通院

東京大学大学院理学系研究科附属植物園

近くのスポットを探す