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大阪城

地上に見えるのは、じつは徳川の城です。秀吉が築いた石垣は今も地下に眠り、天守閣は市民の寄付で建った3代目にあたります。

ゆかりの人物

基本情報

大阪市中央区大阪城1-1

位置情報

緯度: 34.687375
経度: 135.525795

詳細説明

「大阪城といえば秀吉の城」と思って訪れると、じつは地上で秀吉の石垣を一つも見ないまま帰ることになります。 天正11年(1583年)、豊臣秀吉はというお寺の跡地に、城を築きはじめました。大阪平野の中央を南北にのびる上町台地、その北のはしにあたる場所です。 けれどもこの城は、慶長20年(1615年)ので焼け落ちてしまいます。豊臣氏は、城とともに滅びました。 あとを継いだ徳川幕府は、焼け跡に建て直すという道を選びませんでした。豊臣の石垣を大量の盛り土でまるごと埋めてしまい、その上にまったく別の城を築いたのです。元和6年(1620年)から、およそ10年がかりの工事でした。ですから、いま目にする石垣も堀も、大手門・多聞櫓・千貫櫓といった建物も、すべて徳川時代のものです。秀吉の石垣は今も地下に眠っていて、令和7年(2025年)に開いた「大阪城 豊臣石垣館」で階段を降りると、ようやく対面できます。 その徳川の天守も、長くはもちませんでした。寛文5年(1665年)、天守はによって焼け落ちます。幕府はとうとう建て直さず、大坂城はそれから266年ものあいだ、天守のない城でありつづけました。 いまの天守閣は、豊臣時代・徳川時代につづく3代目にあたります。昭和のはじめ、関一市長の呼びかけにこたえたによって、当時最新の鉄骨鉄筋コンクリート造でよみがえりました。城跡一帯は国の特別史跡、13棟の建物は重要文化財です。秀吉の城、徳川の城、そして人びとが建てた天守閣。三つの時代が、同じ場所に積み重なっています。

知って使える知識

  • 石垣の総延長は12キロメートルにおよび、積まれた石材は推定100万個といわれます。
  • 豊臣時代の天守は、頂部の標高が約70メートルあったと推定されています。

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