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この市区町村をすべて見る戸切地陣屋跡史跡公園
北海道北斗市にあった陣屋です。江戸幕府が外国船の警備に当たるため 松前藩に築造させました。昭和40年に国の史跡になり「松前藩戸切地陣屋跡史跡」 と名称を統一しました。 陣屋の総面積は43.400平方メートルで形状は四稜の星型で上から見ると亀の形 に見えます。 ソメイヨシノを中心に580本の桜のトンネルを抜けると歴史を感じながらお花見ができます。 また5月には陣屋桜まつりが開催されとても賑わいます。
水稲発祥之碑
水稲発祥之碑は遠別の稲作の礎を築いた南山仁太郎氏の功績を讃えて建てられました。道北の地において1897年から稲作への試みが始まりました。当初は福井から取り寄せた種子で稲作を試みましたが難しいのが現状でした。耐寒性のある上川産の種子を用いて遠別川から水を引いて田を作り1901年に南山仁太郎氏によってようやくこの地で稲作が可能となりました。 1921年には灌漑工事が進み水耕栽培が本格的に行われるようになりその後、遠別町稲作経営研究会は創立20周年を記念し、遠別の稲作の礎を築いた南山仁太郎氏の功績を讃えて遠別町に水稲発祥之碑を作りました。 これより北では水稲は世界的に見ても実施されていません。遠別町は日本最北の米どころとされています。碑は水稲発祥を意味するだけでなく、世界的にここが最北の水田である事も意味しています。 遠別町で作られる米は「はくちょう」です。こちらの米を利用して旭川の高砂酒造によって純米酒が作られ「北吹雪」という銘柄になります。
きじひき高原
きじひき高原は函館の町から北北西に行った大沼の西側に標高684mの木地挽山があり、この麓に広がる北斗市営牧場があるのがきじひき高原です。 このきじひき高原にはキャンプ場があり、ここでキャンプできるだけでなく、さらに高原を上へと進むとパノラマ眺望台と噴火湾眺望台という2つの眺望台があります。標高560m程度の高さにあるパノラマ眺望台からは北から東にかけては大沼・小沼とその奥に駒ヶ岳、そして東から南にかけては、どこまでも広がる大野平野と、その奥に函館市街と函館山という360度の素晴らしいパノラマを楽しむ事ができます。 見晴らしのよい牧場に観音様を安置したいとの地元住民の願いから1966年にパノラマ展望台の裏には太平三十三観音と首座観音も安置されています。函館の展望を楽しむ展望地としては向かい側に城岱牧場がありますが、昼間に展望を楽しむなら函館までの距離は遠くなり函館市街や函館山は小さくなってしまうが、大沼まで一望できる360度の展望を楽しめるこちらの方がお勧めです。
噴火湾眺望台
噴火湾眺望台は函館の町から北北西に行ったところ大沼の西側に標高684mの木地挽山があります。 この山の麓に広がる北斗市営牧場があるのがきじひき高原です。このきじひき高原にはキャンプ場があり、ここでキャンプできるだけでなくさらに高原を上へと進むとパノラマ眺望台と噴火湾眺望台という2つの眺望台があります。パノラマ眺望台からさらに奥へと進むと路肩に小さな駐車場を作っただけの噴火湾眺望台があり、ここから駒ヶ岳だけでなくその奥に噴火湾まで見る事ができます。 噴火湾眺望台から少し先にはきじひき公園があり、高原を散策もできます。噴火湾眺望台の少し手前の道路からは函館の町並みを見渡すことのできる場所があり、こちらもお勧めです。
北海道水田発祥之地
北海道水田発祥之地は北斗の町から北側の道道96号線から少し入った場所に北海道水田発祥之地の石碑があります。蝦夷に和人が入植してからも気候の問題で北海道では米が採れず、松前は石高ゼロの大名でした。 北海道はニシンやサケなどの漁業が盛んだったので食料には困りませんでしたが本土から移住した人々の米が食べたいという想いは強くありました。 北海道への人々の定着は米にあると考え、人々は北海道でもまだ気候に恵まれた道南に稲作を試み、1692年に農民作右衛門が押上のこの地を拓し0.15ヘクタールを開田し十俵を収穫しました。しかしこの米作も長くは続かず、その後も北海道の稲作は失敗と成功を繰り返すこととなりました。 しかし1850年にようやく大野村の高田松五郎・万次郎親子が米の収穫に成功すると近隣の村々にも広がり、1854年以降、道南の米作りはようやく安定することとなりました。 1873年になって道南で栽培されていた「赤毛」と「白髭」を元に寒冷地向けの品種「石狩赤毛」を開発し、道央でも稲作が可能となり、さらに「坊主」や「黒毛」などの耐寒品種の開発で道東や道北でも稲作が可能となりました。 この寒冷な蝦夷地で稲作を可能とした先人の功績を記して1949年に北海道水田発祥之地の石碑が建てられました。
松前藩戸切地陣屋跡
松前藩戸切地陣屋跡は北斗の町から北西に行った大野平野の西の外れに松前藩戸切地陣屋跡があります。箱館開港に伴う外国船渡来による不測の変に備えて幕府は松前藩に七重浜から木古内までの守備を命じ、1855年にこの戸切地陣屋が構築されました。 陣地は蘭学の築城書による四稜堡で広さは4.3ヘクタール。東南部の稜堡に6門の砲座を配置しました。郭内には17棟の建物があり約120人で守備していましたが1868年の箱館戦争時、榎本武揚率いる旧幕府残党に追われて相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払って敗走しました。 この陣屋は焼失していますが保存状態が極めてよく、幕末における北辺の国際情勢や西欧風の影響を知る資料として築城史上価値ある史跡です。表御門跡と裏御門跡には大手門と搦手門が復元され、門から入ると広い郭内には大砲入跡、筒入跡、蔵跡、備頭・目付詰所跡、足軽長屋跡、武器庫跡などがあり、石で基礎を再現して跡地を表示しています。 1904年に日露戦争を記念して陣屋跡までの800mの一本道に585本の桜の木が植えられました。
