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「西国三十三所めぐり ─ 観音霊場33か所+番外3」の他のスポット
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青岸渡寺
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。山号は那智山。本尊は如意輪観世音菩薩。2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。

紀三井寺
和歌山県和歌山市紀三井寺にある仏教寺院。正式名は紀三井山金剛宝寺護国院。西国三十三箇所第2番札所。

粉河寺
和歌山県紀の川市粉河にある天台系の寺院。西国三十三箇所第三番札所。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。宗派は天台宗系の粉河観音宗総本山。本尊は、千手千眼観音菩薩。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

施福寺
大阪府和泉市にある天台宗の仏教寺院。通称槇尾寺(まきおでら、まきのおでら)。山号は槇尾山(まきのおさん)。本尊は弥勒菩薩(札所本尊は千手観音)。槇尾山の山腹に位置する。西国三十三箇所観音霊場の第四番札所である。

葛井寺
大阪府藤井寺市藤井寺一丁目にある真言宗御室派の寺院。藤井寺、剛琳寺とも称する。山号は紫雲山。本尊は千手観音。西国三十三箇所第五番札所。

南法華寺
奈良県高市郡高取町にある真言宗豊山派の寺院。山号は壺阪山。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。703年(大宝3年)創建と伝え、西国三十三箇所第六番札所。本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台としても有名。園内には養護盲老人ホーム慈母園がある。先代住職のインドでの救ライ事業への尽力に対する返礼として贈られた「天竺渡来大観音像」は、大理石造り、高さ約20m、総重量1200トンの壮大なもの。その他、インド渡来のものとしては、石像
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観音寺
京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)とも称される。山号は新那智山。本尊は十一面観音(秘仏)。西国三十三箇所第十五番札所、神仏霊場巡拝の道(神仏霊場会)百二十二番(京都四十二番)霊場、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、京都七福神えびす神奉祀 。

清水寺
清水寺は、京都市東山区清水にある寺院です。山号は音羽山、本尊は千手観音です。{p_thema-6-西国三十三箇所}観音霊場の第16番札所で、1994年には「古都京都の文化財」を構成する遺産として世界文化遺産に登録されました。 清水寺の始まりは、賢心という大和の僧が夢のお告げをもとに訪れた音羽山の滝で、行叡居士(ぎょうえいこじ)という老仙人で出会ったことから。賢心は行叡居士の言葉に従って、庵を結ぶことにしました。 2年後、鹿狩りをしに音羽山を訪れた坂上田村麻呂に対し、賢心は仏の教えを説きます。感銘を受けた坂上田村麻呂は後日寺院を建立し、「清水寺」と名付けたと伝わっています。 建立当初の清水寺は興福寺の末寺だったため、平安時代後期から鎌倉時代にかけて興福寺と延暦寺の抗争に何度も巻き込まれて焼討に遭いました。また室町時代には応仁の乱の影響で堂塔が全焼しており、現在に至るまで10回以上の火災に遭っています。現在見られる清水の舞台は、1633年に再建されたものです。 2011年からは保存のための工事が始まり、2017年に奥の院の修理が終わりました。歴史考証と化学分析をもとに、組物を極彩色に塗り直しています。その後、檜皮葺屋根の葺き替え工事と舞台の板の張り替え工事も完了し、現在は美しい姿を見られます。
高山彦九郎
江戸時代後期の尊皇思想家である。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。
出雲阿国の像
1603年、京都の四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装をして「かぶきをどり」を披露、 関ケ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせました。 江戸時代に入り、風紀を乱すという理由で女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになりましが、出雲阿国は歌舞伎の元祖と言われ知られています。
宮崎友禅
江戸時代の元禄年間(1688年~1703年)を中心に京都で活躍した扇絵師。
坂本竜馬と中岡慎太郎の像
京都の公園の中で最も親しまれている円山公園に、坂本龍馬と中岡慎太郎像があります。 2人が揃っている珍しいもので、高知桂浜の龍馬像と並んでファンの間では人気の像です。 中岡慎太郎のこの姿勢は、二人の身長差を隠すためと言われています。 この像は、昭和11年京都高知県人会有志により建立されましたが、第二次大戦中には日本軍の資源不足を補うために銃の材料とされてしまいました。 その後、昭和37年には高知県人会の初代会長だった川本直水氏によって私財を以って再建されました。
